It goes on

イルフォードの白黒フィルムと現像液/定着液で久しぶりの自家現像。わけもなく川沿いを撮り歩いたこれらの写真に特別意味もないけれど、現像タンクを振って、ネガを吊って乾かしながら、9月に行ったアラーキー展@都写美のことを自分のために書いておこうと思った。今年「私写真」を観るのはそれが二度目だった。

 

私写真論は僕にはわからないけれど、私写真には時々揺さぶられる。最初は10年くらい前、須田一政ワークショップの塾生さんに教えてもらって、荒多恵子さんの個展「オリヒメの涙」、「胸神 -乳がんになった日から-」を観たときだった。作者の人生を映し出したそのストーリーが素直であればあるほど、そこに写る作者の内面が観る側へもすっと移入してくる感じがする。だから、アラーキー展を一緒に観た人に、大丈夫かな、と思った。「陽子さんを見たい」と言っていたから余計にそう思った。なんでもない日常、なんでもない瞬間、積み重ねる日々を通して、写実も抽象もナイーブさも、全部転写している第一人者が荒木経惟さんだと思うので、気がつくと思いのほか深く入り込んでくるような気がした。

 

展示を観ながら僕は、ずっと昔に行った、Bunkamura・ザ・ミュージアムのグッゲンハイム美術館展を思い出していた。シャガールとか色んな絵があった中、混雑していた会場内でどうしても全体像を観ることが出来ない絵があった。とても大きなその絵の前に行って、人に押されながら目の前数十センチでその絵を観たとき、油絵の具の筆の痕跡が生々しく残っていたからか、念のような得体の知れない怖さに包まれたことをよく覚えている。その時点でその絵のことを僕は何も知らなかったし、近すぎて全体像を観られなかったので、会場を出てから図録を読んだ。「水差しと果物鉢」というピカソの絵だった。図録にはこんなようなことが書かれていたと思う。”テーブルの上に置かれた果物と水差し、キュビズムで描かれたその絵の「線」を辿っていくと、絵の中に一人の女性の姿が現れる、亡くなったばかりのピカソの愛人の姿がそこに描かれている”。ネットで検索してもそのような解釈には出会わないので、著者のキュレーターの想像力とか、図録を購入しなかった自分の記憶違いかもしれないけれど、それ以来僕はその記憶のとおりに捉えることにしている。「水差しと果物鉢」でピカソが描きたかったものは、主題の目の前の静物ではなく、その部屋といつもそこにいた愛人の残像。僕が感じたのは「恐怖」ではなくて、ピカソの思いの強さだったんだろうなと思う。

 

写真展とか美術展、大概一人で観賞するけれど、アラーキーと陽子さん、「センチメンタルな旅 1971- 2017-」。ひとりだったら行かなかった。散漫になるような気もするからグループみたいな形でも行かなかったと思う。同行者が同性の友人だったらやっぱり行っていないような気もする。語弊があるかもしれないけれど。その点、今回同行の機会を与えてくれた人に感謝。余計なことを書いたけれど、語り合うよりも感じるもの、今尚続くそういうストーリーだと改めて思う。

*It (life) goes on 人生は続く – ロバート・フロスト